2015.04.16 健康生活よもやま話

江戸時代の医薬事情

[執筆者]

山王佐野薬局 管理薬剤師 鎌田 弘

佐野薬局は江戸時代の初期に「越後屋」という名前で秋田において商いを始めたと伝えられています。そして寛政年間には秋田藩城主の佐竹氏より名字帯刀を許され、当主は代々「佐野八五郎」を襲名してきました。寛政とは1789年から1801年で、時の江戸幕府将軍は第11代の徳川家斉です。当時は現在の通町の地で薬種処と呉服・太物・小間物商を営んでいました。

それでは江戸時代のお薬事情はどのようになっていたのでしょうか。徳川家康は健康に気を使い満73歳の当時では長寿でした。また医薬の大家であったことが知られています。3代将軍家光が3歳のときに大病となり医者もどうにもできませんでしたが、自家製の紫雪(しせつ)という薬で救ったと記載されています。その他の生薬(しょうやく)も自分で薬を調合していました。出陣の際には熱中症を抑えるための御笠間薬(おんかさまやく)を笠のうらに隠して持ち歩きました。また、後の駿府御薬園となる薬草、薬木の栽培も行わせていました。このように江戸期に医学と薬学は奨励され発展していきました。

日本各地をみると売薬業がさかんとなり、旅の土産には各地の名薬が人気でした。医者は薬種問屋から生薬を買いたくさん引き出しのついた百味箪笥(ひゃくみだんす)に保管し、患者さんの症状にあわせて調合していました。この中から秤などを使わずに薬匙(やくさじ)だけで計って調合していたことから、「さじ加減」という言葉が生まれたそうです。写真は佐野薬局本店に保管されている百味箪笥です。種類としては慢性肝炎の治療薬である小柴胡湯(しょうさいことう)や、風邪薬として知られる葛根湯(かっこんとう)など、現代でも漢方薬と呼ばれる薬が数多く処方されていました。

「この紋どころが目にはいらぬか」でみなさんご存知の徳川家の葵の紋所を記した印籠は実は薬入れなのです。家康の孫である黄門様こと光國公は、水戸藩の藩医・穂積甫庵(ほずみようあん)に命じて、「救民妙薬」という今で言う家庭の医学書を作らせました。その序文には、「山村には医もなく薬もなく、治療を受けられずに天命を全うすることが出来ない者が多い。これは誠に残念であるとして、光國公は田舎でも手に入れやすい薬の処方を命ぜられた。397種を選び編集した」という内容が述べられています。

ところで江戸の後期には秋田で「感恩講」という民営の窮民と孤児の救済機関運営されております。当時の東北地方は何度も凶作と飢饉に襲われました。そのため多くの人が生活に困窮しており、その救済を行ったわけです。これは那波祐生氏が計画し、今で言うとNPO(民間非営利組織)にあたるでしょう。佐野家はこの感恩講にも参加しておりました。

 この精神は現在のサノ・ファーマシーにおいても、健康や生活に不安を抱えられるお客様・患者様の気持ちに寄り添って、常に思いやりの心を忘れず、自らの親戚に接するとの経営信条に受け継がれております。これからも親しみと温かさ、安全と安心を常に追求し続け、日々新たな信用を築けるよう努力してまいります。

出典

エーザイ株式会社 くすりの博物館 http://www.eisai.co.jp/museum/

水戸市植物公園 http://www.mito-botanical-park.com

社会福祉法人 感恩講児童保育院 http://www.kanonko.jp

株式会社サノ・ファーマシー グループ沿革 http://www2.sano-ph.co.jp/outline/